2006/06/15

身もフタもない

例えば屈伸運動をしているとしよう。

脚の裏の筋が引っ張られてあたたなんて思いながら薄目を開けて地面を見ているとなにかが動いている。もう少し目を開けてみるとそれはアリが歩いているのだった。

ほんの一時、痛みも忘れて「へええ」なんて大いに感心したりする。

それから土手に出て暮れゆく空を見上げる。
雲がまばゆく輝いている。

美しくてかなわんな。


自然は美しい。

だが、と考えてみる。
なぜ自然はこんなに美しいのか?

てくてくとゆっくり走り出す。

なぜ自然はかくも美しいのか?

そりゃおまえさん、あたりまえじゃねえか
なぜって、そう問うおまえさんがおかしいや
お天道様を見てみなよ
この世界を見てみなよ
世界ってもんは、そりょあもう、みんな美しいもんよ

そう。
世界は美しい。

それじゃ今度はこう尋ねよう。
世界はどうして美しい?

世界ときたか
世界と言えば
世界の坂本
世界の小沢
えーそれから誰だ?

ふっふっふっふっ

世界が美しいのは世界が閉じているからじゃないのか。
完結している。完全としている。
そのありようが美しいのじゃないか。

そうかもしれない。
そうじゃないかもしれない。

喩えるなら山が世界だ。
球のように閉じていること、すぼまっていることが必要なのだ。
海は世界ではない。
海は開いている。全てに対して受け身となる。

すると美しくなりたいなら閉じよと?

閉じよ
綴じよ

瞳を閉じものごとを綴じよ
世界を編集せよ

ふっふっふっふっ

2006/06/04

雨の中のわたし

「雨の中の私」という心理テストがあるという。

このタイトルで子どもに絵を描かせると、

・親に守られている子供は当たり前のように傘をさす姿を描き、
・親から庇護(ひご)された体験に乏しい子供は、自分を防御する力が不十分なため、雨にもなすすべがなく、ずぶ濡れになる自分を描く
<毎日新聞社説/2006年5月13日より抜粋>

というのだ。

こんなの本当なのだろうか? 


わたしは自分自身が「親から庇護(ひご)された体験に乏しい」とは思わないけど、このテストを受けたらたぶん濡れきった自分を描くんじゃないかなと思う。理由は簡単で、雨も雨に濡れることも結構好きだからだ。


雨がストレスの比喩として用いられているというのは、雨好きのわたしとしては黙っていられない。