2006/01/25

表層と境界 ~映画『キング・コング』(2005)~

かねてから好評を伝え聞く『キング・コング』を観てきた。
それはうわさに違わぬ美しい映画だった。

その美しさは「表層」そのものの美しさだし、表層に必然的に付随する「境界」の美しさでもある。
この作品が1933年製作『キング・コング』(RKO)のリメイクであること、しかもオリジナルに忠実なリメイクであることを思い出せば今作の存在自体からして表層的なのだと肯ける。観客は誰だってそのおよそのストーリーを観る前から知っているのだから。

ここで言う「表層」とは具体的には地球の表層を指す。髑髏島に向かうventure号と海原、髑髏島コングのねぐらから見る世界、ラストのエンパイヤステートビルを廻るニューヨークの風景。そして「境界」とはこれら地球の表層に訪れる光と影のそれを指す。それらの映像を前に、わたしには(アン(Naomi Watts)と同じく)美しいとつぶやくことしかできやしない。

コングとコングを攻撃する巨大コウモリ(あるいは複葉機)、それを見守るアンとアンに近づく恋するジャック(Adrien Brody)。劇中二度にわたって繰り返されるこの構図はあらゆる物語の消失点としての表層と境界の関係性と美しさをわたしたちの瞳に焼きつける。観る者の瞳は熱く熱く...。

エンドロール時のタイトルバックはそのことを確かに抽象する。
だから、「表層」と「境界」になぜこんなに美しさが宿るのだろう、という疑問は言い換えなければならない。「表層」と「境界」にこそ美しさはあるのだ、と。


PS
それにしても導入部のあの素晴らしさはどうしたことか。
その冒頭、アンはボードヴィルのコメディエンヌ(!)で、彼女の一座とその舞台が時代背景(大恐慌後の1930年代のニューヨーク)と共に描かれてゆくのだがしかし、そこからはただならぬ気配がたちどころにたちこめ始めるではないか。それは美しいというものではない。そのとき画面から漂ってくるのは観ているわれわれをどこかに連れ去ろうとする力だ。その力は、これからすごい映画が始まるぞ、と観る者に告げる。わたしは座席でそわそわしながら姿勢を正す。

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