2006/03/05

停電した夜、豊かな夜 ~映画『山の音』(1954)~

先日は『山の音』(1954)を見てきた。

本作は川端康成原作のもつ隠微なエロチシズムをフィルムに定着しえた希少な作品として評価が高い。そんなアタマがあるせいか冒頭からエロの種オンパレードを見てしまった気がするw。

ともあれいつものようにまずはあらすじを紹介する。


<あらすじ>

上原謙と原節子の夫婦は鎌倉にある上原の実家で両親(山村聡と長岡輝子)と同居している。上原は父親(山村聡)の経営する会社で働いていて、絹子(角梨枝子)という女と関係を持っている。山村はそれを知っているが強いてやめさせようとはしない。

だが原がやっと身ごもった上原の子を誰にも告げず中絶してしまったことを知って山村は角に会う。角も上原の子を宿していたが上原とはすでに別れたと言う。山村が酔って家に帰ると原は実家に帰っていた。

原から会社に電話があり、山村は原と公園で会うことを約す。山村はそこで原から上原と別れる決心を知らされる。山村も夫婦で信州の田舎へ帰るつもりであることを告げる。別れを確認し合ったふたりはしかし都心にあるとは思えないその公園の広大な風景に清々した気持ちを抱くのだった。


主人公は山村だ。山村は自身を耽美主義者と自認しているわけではなさそうだがおしゃべりな長岡の口からそれらしいことを言われてもなにも否定しないところをみると実はしっかりと自覚しているのかもしれない。

まず長岡の死んだ姉がとても美人だったこと、長岡はそれをとても妬いていたこと、そして姉がもし生きていれば山村が結婚相手に選んだのは長岡ではなくその姉だったはずだと語られる。山村は、何を古いことを、と一蹴するが否定はしない。

次に上原の下には妹(中北千枝子)がいてこれが幼い子をふたり連れて二度までも実家に戻ってくるのだが、その中北は自分の不美人を理由にずいぶんひがみっぽくていじけてひねくれた性格をしているのだ。なにかにつけてそのひがみが出てくる。山村は美男の上原ばかりを可愛がって不美人な中北には冷たかったと長岡も認め、山村はそれを黙って聞き流している。

上原の愛人についてそれを知っている山村の秘書(杉葉子)に尋ねるときもその愛人のことを、美人なんだろうね、とそれがさも大事な点であるかのように念を押している。

そんな山村だから原の美貌にはもうデレデレの呈が露わとなる。

最初の方で描かれる山村、長岡、原3人での食事の際の会話を引いておく。


山村「菊子(原)。このあいだ帰った女中ね、なんつったけな?」
原「加代ですか?」
山村「あ、加代がね、帰る2,3日前だったかな、わたしが散歩に出るとき下駄を履こうとして水虫かなと言うとね、「おずれでございますね?」と聞くから、鼻緒ずれの「ずれ」に敬語の「お」をつけて「おずれ」と言ったんだと思って感心したんだよ。ところがね、気がついてみると、敬語の「お」じゃなくて鼻緒の「緒」なんだね。「緒ずれ」と言ったんだね」
原「うふふ」
山村「あはは。加代のアクセントが変なんだ。菊子、敬語の方の「おずれ」を言ってみてくれないか?」
原「おずれ」
山村「ふむ。じゃあ鼻緒ずれの方は?」
原「緒ずれ」
長岡「せっかくのご馳走が冷めちまいますよ」


もちろん原の発音はどちらも同じなのだ。じつにディレッタントで耽美的じゃなかろうか!

だからこの映画に流れるエロティシズムは山村に耽美の傾向がまずあってそれが原に向かうそれを底流とする。

山村が上原に女があることを知っているにもかかわらず、それを原に知られないようにしろとたしなめるのがせいぜいで強く止めたりしないのは原を今の原のまま独り占めしたいからだ。

つまり山村の原に対する愛情は美しいものを愛でるのに等しいものだ。山村の愛はどこまでも自分をその出発点にもっている。幼い頃から山村の自分本位な愛情の対象であった上原もそのあたりの事情をよく知っているのだろう。愛人に対するサディスティックな仕打ち(風邪っぴきのような声なのに歌を歌うことを強要される、ひどく乱暴をはたらく)などはその反動として理解できる。

上原はおそらく原を心から愛している。酔っぱらって帰ってきたとき酔いつぶれながらも「菊子、菊子」と原の名を呼んでいた。停電の夜、隣に敷いてある布団に入ろうとする原を「菊子」と甘くその名を呼ぶ。

にもかかわらず上原が外に女をつくるのは、山村の愛情が原に向かっていることを知り、原に自分と同じ思いをさせたいという腹があるのじゃないか。そうして山村の愛が本当の愛ではないことを自分と同じように気づいて欲しいのじゃないか。その裏にあるのは、山村の原へのそれが自分の場合とは異なって真実の愛である可能性があるのでそれを確認したいという思いがあるではないか。

そんな微妙なところまで描かれているのが『山の音』だ。


中北が最初に戻ってきてそれを夫の元へ帰した夜、台風が近づいてきて鎌倉は嵐になる。上原と山村が珍しく一緒に帰ってくる。もちろんふたりともずぶ濡れだ。やがて停電となり、山村と長岡はろうそくを灯して話している。上原はろうそくを灯してタバコを吸う。原はろうそくを灯して洗い物をする。やがて原は寝間着に着替え布団にはいる。上原が原に呼びかける。「菊子...」。原は上原に少しだけ視線を向けるがすぐに嵐を心配するようによそに視線を流す。

それはそれだけの短いシチュエーションだが、照明がひどく絞られ、ろうそくの灯りが暗闇に灯る。そのせいでいっそう深いものとなるその闇の深さはその途端、豊かさの様相で見る者の想像力を刺激する。じつにエロティックだ。


ラスト。都内にある公園(新宿御苑?)。ヴィスタが考慮されているという並木は硬質なエッチングのようで見る者の心に強く訴えてくる。山村と原はそこで待ち合わせていた。並んで歩く。山村は右手に視線を移す。その先では中年のカップルが並木を横切っている。原は左手に視線をやる。幼い子どもを真ん中に3人の親子がやはり並木を横切ってゆく。

原は堕ろしたばかりの子どものことを思っているに対し山村はそのカップルに原と歩く自分をダブらせているのだろう。最後まで山村は自分本位なのだ。そうして原は耽美のくびきを逃れられずその奴隷となっている親子から逃れる道を選ぶ。

ひょっとするとその原に成瀬巳喜男は自分をなぞらえていたのか...?