2006/03/13

情熱 ~映画『浮雲』(1955)、『流れる』(1956)~

目まぐるしく移ろいゆくのは時間だけなのだ。海物語で確変昇格へ再変動するとき現れる流線のような時間の流れのなかでは、わたしは長くなった髪をバタつかせながら相対的な過去に向かって投射される存在でしかない。しかしそんなわたしにも時間は去りゆき際になにかを置いていってくれる。それを楽しみにわたしはそっと掌を開く。


先週は成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955)『流れる』(1956)、そして第29回日本アカデミー賞の優秀外国作品賞を除く13部門のうち12部門を受賞したという『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)を見た。

成瀬作品は今回も素晴らしいという思いを抱かせてくれた。本当に素晴らしいと思う。あまり好きではなかった『浮雲』もよかった。森雅之が出演している成瀬作品は、

『あにいもうと』(1953)
『浮雲』(1955)
『あらくれ』(1957)
『コタンの口笛』(1959)
『女が階段を上るとき』(1960)
『娘・妻・母』(1960)
『妻として女として』(1961)

だと思うが、これまでに見た『あにいもうと』と『あらくれ』と『浮雲』では同一人物とは思えぬほどイメジが違っている。なかではやはりこの『浮雲』が素晴らしい。花はないが骨がある。丸みはないが角がある。さわやかさはないが渋みがある。決して貶しているのではない。いわゆる軽佻浮薄の裏側あたりセクシャルのすぐ隣ダンディズムの真向かいに住まっている。ひとことで言えば男なのだ。

具体的にはまず目つきがいい。森雅之は目で演技する。長めの睫毛の後ろにあるなにを考えているかまったくわからない瞳。その目がよく動く。基本姿勢は伏し目。そこから上下へ縦方向に動くのだ。横にはあまり動かない。ぱちくりぱちくり瞬くまぶた。そういえば森は目というよりまぶたで演技していると言った方がいいかもしれない。

それから髪。広い額に少々乱れたオールバック。短いもみあげ。後ろ髪がなんとも格好いい。オールバックは当時のホワイトカラーの典型的な髪型だろうけどおそらく当時日本一格好いいオールバッカーだったのではないか。

相手役の高峰秀子はどうだろう。あまり色気がないけどむしろその方がいいのかもしれない。しかし終わり近く鹿児島で屋久島に連れて行ってくれと森の肩に顔を預ける高峰は素晴らしく美しい。


『流れる』は山田五十鈴の映画。それに田中絹代。『浮雲』もそうだけどこの頃の成瀬作品はシーンのつなぎというか編集が素晴らしい効果を発揮している。脚本にはわざとらしくて退屈な紋切り型が見受けられないでもないがそんなものどうでもいいぐらいにカットのつなぎが素晴らしい。カメラはほとんど動かない。それでも極めてスムーズに話が進行するのはつなぎが抜群にいいからだ。バストショットの次にそれからちょっと引いた画。それだけでドラマの運動性が強調される。そしてシーンとシーンの間時間経過を示したいときはよく狭い路地が挟まれる。そこにはたいていなにかが歩いている。

しかし成瀬作品はどうしてこんなに素晴らしいのだろう?


「でも、もう四十でしょう、あなたは?」
「だからこそ、いよいよやらなくちゃだめだと決心したんだよ」
(中略)
「でも、あなたのような齢でおはじめになって、いったいものになるんでしょうか?たいていは十八くらいからはじめるんじゃありませんか」
(中略)
「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」
彼の声には真実の情熱がこもっていた、そして僕ですら、われにもあらず心を打たれるものがあった。

(新潮文庫『月と六ペンス』p.76〜p.79 中野好夫訳 より)


おそらくそんな情熱をわたしも成瀬巳喜男の作品から感じているのだ。




<引用>
読売新聞 2006年3月13日付け KODOMO読む より