2006/03/31

わかるということ

山本史郎(2003)「テクストの産婆術」.斎藤兆史編『英語の教え方学び方』.東京大学出版会.

著者の山本史郎さんは19世紀イギリス文学をご専門になさっている大学の先生です。ここではトールキンの『ホビット』の最終部をテクストに、学生とのやり取りを通してソクラテスばりの産婆役に徹することで、「わかるということはどういうことなのか」をわたしたちにわかりやすく提示しておられます。これを読んでいくと、わたしのようなまるっきりの門外漢にさえ「わかるということ」がありありと目の前に差し出されたように感じられ、そうして差し出された「わかるということ」もさることながらその手法には動揺を憶えるほど感銘を受けました。その本質からして抽象的なものでしかあり得ないと思っていた「わかるということ」が、実はこれほど実践的で具体的なことであったと知ったからです。

最初の節で山本さんは、「理解」ということを、

「ある視点を得ることによって、それまでばらばらに存在していた多数の要素がまとまりをもったものとして見えてくる」

と定義することを試みられています。

この定義は例えば次のものと比べてみるとその違いがよくわかります。

「物事に接して、それが何であるか(を意味するか)正しく判断すること」
---『新明解国語辞典』(第三版)

(1)「物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。了解」
(2)「人の気持ちや立場がよくわかること」
---『広辞苑』(第四版)

これらでは「理解」の要諦が「判断すること」「わかること」に置き換わっているだけでこれだけではなんのことか腹の中にとんと納まるものがありません。

対して山本さんの定義では「理解」というわかりにくいことばが「見えてくる」という感覚のことばに収束しています。ちょっと小高い丘の上に登るような気安さでそれがどんなことなのかよくわかります。

もう少し細かいことを言えば、「見える」ではなく「見えてくる」と表現しているところも重要な気がします。「見る」という行為は思った以上に恣意的な行為であること、志向性を含意した行為であることがわかっています。つまり光学的な情報として目に入ってくる刺激を取捨選択する行為が「見る」という行為の本質です。

したがって「見える」という場合、そういう見方を選ぶことができる、というどちらかというと静的な状態を指し示す意味になりますが、「見えてくる」だと、いろいろと見方を選ぶことができる状態のなか、ある特定の見方がそれ以外の見方とは違ったものとして浮かび上がってくる、という動的な行為を意味しそうです。

その浮かび上がってきた特定の見方をすることで、ばらばらに見えていた要素たちがばらばらではなくあるまとまったものとして見えてしまう。それが山本さんの言う「理解」です。そこではすべての要素がまとまっています。「すべて」というところが重要です。

続く第2節から第7節まで、山本さんは「わかるということ」を具体的に指導されています。この部分は実際に読んでみるととても面白いです。

最終第8節で山本さんは、発言なり文章なりを煮つめて、その趣旨を析出させることが、テクスト理解のためには不可欠であること、さらに、最終的に、発言なり文章なりの「すべて」のセンテンスが、このような核をなす結晶体との関係でとらえることができるのでないかぎり、テクストを本当に理解したことにはならないだろう、と述べられています。


ゆっくりと時間を掛けて理解することがとても大切でしかも楽しいことのようです。