2006/05/23

解釈せよ、と現れる「こと」

『ことの次第』はヴィム・ヴェンダース監督による1981年の映画だけど、この邦題はことのほかわたしのお気に入りだ。

ものごとには「もの」と「こと」があると教えてくれたのは廣松渉さんの著作だったはずで、そんなことあたりまえなのに(だってものごとだもの)、えらく納得した憶えがある。

その一方の雄である「こと」がさりげなくタイトルに収まっている。さらには「次第」だから徐々にしびれるのもこれまたあたりまえなのだ。

要するに「もの」とは存在であり、「こと」とはその意味である。

問題が生ずるとすれば「こと」のもつその意味を解釈する時点で起きるに違いない。解釈とは解釈人の希望的忖度であるからだ。


ではあるが稀なこととは言え、「こと」がそのほぼ絶対的な解釈を全身から放出しながら現れることがある。その解釈の補集合の中からそれと違った解釈を探そうとするがそういった行為のどれもこれもが砂か紙を噛むような不実さを訴える。解釈人は断崖絶壁にまで追いつめられその端っこで絶体絶命のピンチ・チョップをアタタタタと浴び続けているような状態になる。胸は裂け頬が破れる。かろうじて立っている足場が、内でゆらゆらと揺れるこころが、少しずつ砕けてゆく。そこまでいってようやく解釈人はその絶対的解釈を受け入れる。受け入れる。そう思うとなぜか安らかな心境になる。断崖の上の空がやけに輝き始める。解釈人にとってそれがどんなに破滅的な解釈だとしても、だ。

だけど、しょうがない。
そういうことだってあるのだ。

そう。
そういうことだ。