2006/05/29

馬券を買う理由

昨日は東京競馬場で第73回東京優駿(日本ダービー)が行われた。
わたしも久しぶりにこそこそと勝馬投票してみたのだが、相変わらず競馬は難しいのだと納得して時間が過ぎていった。

しかし、レースを見ていてもかつてのようにvividに感じるものがなにもなかった。これでは大枚をはたく意味がない。もっとも大枚といってもロードショーを1本見られるぐらいの額でしかないけど。

考えてみれば、その昔はあまりに切なくて馬券を持ったレースを見ていることができなかったのだった。なにがあんなに切なかったのだろう。今となってはその名残すら思い出すことができないというのに。

そもそもわたしはなぜ馬券を買っていたのだろうか?
というか、正確に言うと、なぜ馬券を買うことができたのだろうか?

馬券を買うのはそのレースの結果を予想するという行為に終止符を打つためだと言えば格好がよすぎるけど、その昔はひとつのレースを1週間かけて検討(!)していたわけで、時間はいくらあっても足りなかった。だからうっかりするとレースが終わっても検討し続けるなんてことすら起こりえたのだ。それじゃいくらなんでも可笑しいから検討を終えるために仕方なく馬券を買っていたのかもしれない。

レース結果を予想するのはとてもexcitingでその上わたしとしてはとても知的な行為だと感じていた。だから実際のレースはどちらかというとどうでもよかったのだ。馬券検討という崇高な行為の前では現実のレースなど検討の成果を確かめるための単なる一現象だった。

つまり当時のわたしにとって競馬はギャンブルではなかったのだ。ある仮説を元に理論展開し結果を予想する。結果が間違っていれば(というか当たったことなどまずなかった!)、仮説に修正を施しさらに理論展開する。この繰り返しがいつの日か仮説を真実へと近づけると固く信じ(るフリをし)ていた。

だから、なぜ馬券を買うことができたのか、という問いに答えるとすれば、煎じ詰めるなら、仮説があったから、なのだ。そしてその仮説を信じ(るフリをし)ていたから、なのだ。

しかしその仮説も捨てられる日がやってきた。あまりに結果を伴わないということと、結果を伴わせるための理論展開があまりに煩雑になってきたからだ。3分で出るレース結果を予想するのにものによれば何ヶ月も時間と労力を使うのは馬鹿げていることにようやっと気がついたのだ。

そうして今ではわたしはこそこそとしか馬券を買えない身体になった。

考えてみればそれでよかったのかどうかわからない。1年に、いや数年に一度でもいい。たっぷりと時間をかけて自信を持てるレースだけを買っていればなんとかやっていけたのじゃないか。あの仮説をどこまでも追い続けるべきではなかったのか。あの仮説を信じ切るべきではなかったのか。後悔というほどじゃないけど、今となってもそんな未練を感じたりする。

今思うのは

「信じるべきものがない世界はなんて味気ないのだろう」

ということだ。


しかし同じことをこうも言えるだろう。

「世界はおそらく味気ないものだ。しかしそこになにかを信じるという幻想を持ち込むと途端に世界は色づいて見えてくる」


・・・
結論。
色気は大事ってことですw