2006/03/31

わかるということ

山本史郎(2003)「テクストの産婆術」.斎藤兆史編『英語の教え方学び方』.東京大学出版会.

著者の山本史郎さんは19世紀イギリス文学をご専門になさっている大学の先生です。ここではトールキンの『ホビット』の最終部をテクストに、学生とのやり取りを通してソクラテスばりの産婆役に徹することで、「わかるということはどういうことなのか」をわたしたちにわかりやすく提示しておられます。これを読んでいくと、わたしのようなまるっきりの門外漢にさえ「わかるということ」がありありと目の前に差し出されたように感じられ、そうして差し出された「わかるということ」もさることながらその手法には動揺を憶えるほど感銘を受けました。その本質からして抽象的なものでしかあり得ないと思っていた「わかるということ」が、実はこれほど実践的で具体的なことであったと知ったからです。

最初の節で山本さんは、「理解」ということを、

「ある視点を得ることによって、それまでばらばらに存在していた多数の要素がまとまりをもったものとして見えてくる」

と定義することを試みられています。

この定義は例えば次のものと比べてみるとその違いがよくわかります。

「物事に接して、それが何であるか(を意味するか)正しく判断すること」
---『新明解国語辞典』(第三版)

(1)「物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。了解」
(2)「人の気持ちや立場がよくわかること」
---『広辞苑』(第四版)

これらでは「理解」の要諦が「判断すること」「わかること」に置き換わっているだけでこれだけではなんのことか腹の中にとんと納まるものがありません。

対して山本さんの定義では「理解」というわかりにくいことばが「見えてくる」という感覚のことばに収束しています。ちょっと小高い丘の上に登るような気安さでそれがどんなことなのかよくわかります。

もう少し細かいことを言えば、「見える」ではなく「見えてくる」と表現しているところも重要な気がします。「見る」という行為は思った以上に恣意的な行為であること、志向性を含意した行為であることがわかっています。つまり光学的な情報として目に入ってくる刺激を取捨選択する行為が「見る」という行為の本質です。

したがって「見える」という場合、そういう見方を選ぶことができる、というどちらかというと静的な状態を指し示す意味になりますが、「見えてくる」だと、いろいろと見方を選ぶことができる状態のなか、ある特定の見方がそれ以外の見方とは違ったものとして浮かび上がってくる、という動的な行為を意味しそうです。

その浮かび上がってきた特定の見方をすることで、ばらばらに見えていた要素たちがばらばらではなくあるまとまったものとして見えてしまう。それが山本さんの言う「理解」です。そこではすべての要素がまとまっています。「すべて」というところが重要です。

続く第2節から第7節まで、山本さんは「わかるということ」を具体的に指導されています。この部分は実際に読んでみるととても面白いです。

最終第8節で山本さんは、発言なり文章なりを煮つめて、その趣旨を析出させることが、テクスト理解のためには不可欠であること、さらに、最終的に、発言なり文章なりの「すべて」のセンテンスが、このような核をなす結晶体との関係でとらえることができるのでないかぎり、テクストを本当に理解したことにはならないだろう、と述べられています。


ゆっくりと時間を掛けて理解することがとても大切でしかも楽しいことのようです。

2006/03/14

不確定性が快楽を呼ぶ ~本『脳内現象』(茂木健一郎 2004)~

たとえばあなたはCR大海物語を打っているとしよう。序盤戦、試し打ちの段階でまだ呼吸さえ整っていない。画面は淡々と進行し、あなたはなかなか回るようだと判断し続行を決意する。そのうち5千円ほど入れたところでダブルリーチがかかる。瞬間、画面右端から魚群出現!いきなりあなたは緊張場面に突入する。

おそらく現在、一般的にはこの瞬間がパチンコを打っていて最高にアツイ瞬間だろう。

その理由は魚群リーチの抜群の信頼度にあるようだ。といっても信頼度が高いという意味ではない。おそらくその信頼度は50%前後だろう。そしてこの50%という値こそがプレイヤーがもっともアツくなれる値らしいのだ。


茂木健一郎さんの『脳内現象』(2004)によれば、

<引用(一部改変)>

ドーパミンという情報(神経)伝達物質を放出するニューロンをドーパミン細胞というが、脳の大脳基底核という領域にあるドーパミン細胞がシナプスを伸ばす経路のうち、A10(エーテン)と呼ばれる経路は「快楽」を担う経路として有名である。この経路が活動すると快楽の感覚を生じるのだ。

2003年に、イギリスの神経学者ウォルフラム・シュルツらは、ドーパミン細胞を中心とする情動系が、不確定性をどのように処理しているのかを示唆する、画期的な発見をした。シュルツらは、ドーパミン細胞が、報酬を表現するだけでなく、報酬が来るか来ないかわからないという不確定性そのものを表現していることを見いだしたのである。

シュルツらは、猿に対して、コンピュータ画面上に特定の図形を刺激として提示し、一定時間後にちょうど0.5の確率でジュースなどの報酬が与えられるということを訓練で憶えさせた。

すると、猿のドーパミン細胞は刺激提示後、0.5の確率で報酬がもらえると予想される時刻まで、ある一定の活動レベルを保ち続けることがわかったのである。

シュルツらは、報酬を与える確率を0から1まで様々な値に設定して実験を行った。その結果、確率が0.5の時に、先の保ち続けられる活動レベルが最大になるということを発見したのである。

<引用終わり>


だという。

これによると、不確定性が一番大きいとき(報酬確率=0.5のとき)にドーパミン細胞は最大に活動する、つまりそのときもっとも快楽を感じるようになっているのだ。

これを読んで海物語に設計されている魚群リーチを思い出さないパチンコファンはいないにちがいない。海物語シリーズはおそらくパチンコ史上最高のヒット作だとおもうけど、その理由が大当り信頼度=0.5の魚群リーチにあることを、イギリスのシュルツさんたちが証明してくれたのだ。

それをその遙か以前に予見していた三洋物産海物語シリーズのデザイナーたちに拍手を送りたい。

これはおそらくあらゆるギャンブルにおける快感原則と考えることができる。当たるか当たらないか。ふたつにひとつ。あなたがそう思えるとき、そのギャンブルはあなたにもっとも快楽を与えてくれるだろう。

2006/03/13

情熱 ~映画『浮雲』(1955)、『流れる』(1956)~

目まぐるしく移ろいゆくのは時間だけなのだ。海物語で確変昇格へ再変動するとき現れる流線のような時間の流れのなかでは、わたしは長くなった髪をバタつかせながら相対的な過去に向かって投射される存在でしかない。しかしそんなわたしにも時間は去りゆき際になにかを置いていってくれる。それを楽しみにわたしはそっと掌を開く。


先週は成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955)『流れる』(1956)、そして第29回日本アカデミー賞の優秀外国作品賞を除く13部門のうち12部門を受賞したという『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)を見た。

成瀬作品は今回も素晴らしいという思いを抱かせてくれた。本当に素晴らしいと思う。あまり好きではなかった『浮雲』もよかった。森雅之が出演している成瀬作品は、

『あにいもうと』(1953)
『浮雲』(1955)
『あらくれ』(1957)
『コタンの口笛』(1959)
『女が階段を上るとき』(1960)
『娘・妻・母』(1960)
『妻として女として』(1961)

だと思うが、これまでに見た『あにいもうと』と『あらくれ』と『浮雲』では同一人物とは思えぬほどイメジが違っている。なかではやはりこの『浮雲』が素晴らしい。花はないが骨がある。丸みはないが角がある。さわやかさはないが渋みがある。決して貶しているのではない。いわゆる軽佻浮薄の裏側あたりセクシャルのすぐ隣ダンディズムの真向かいに住まっている。ひとことで言えば男なのだ。

具体的にはまず目つきがいい。森雅之は目で演技する。長めの睫毛の後ろにあるなにを考えているかまったくわからない瞳。その目がよく動く。基本姿勢は伏し目。そこから上下へ縦方向に動くのだ。横にはあまり動かない。ぱちくりぱちくり瞬くまぶた。そういえば森は目というよりまぶたで演技していると言った方がいいかもしれない。

それから髪。広い額に少々乱れたオールバック。短いもみあげ。後ろ髪がなんとも格好いい。オールバックは当時のホワイトカラーの典型的な髪型だろうけどおそらく当時日本一格好いいオールバッカーだったのではないか。

相手役の高峰秀子はどうだろう。あまり色気がないけどむしろその方がいいのかもしれない。しかし終わり近く鹿児島で屋久島に連れて行ってくれと森の肩に顔を預ける高峰は素晴らしく美しい。


『流れる』は山田五十鈴の映画。それに田中絹代。『浮雲』もそうだけどこの頃の成瀬作品はシーンのつなぎというか編集が素晴らしい効果を発揮している。脚本にはわざとらしくて退屈な紋切り型が見受けられないでもないがそんなものどうでもいいぐらいにカットのつなぎが素晴らしい。カメラはほとんど動かない。それでも極めてスムーズに話が進行するのはつなぎが抜群にいいからだ。バストショットの次にそれからちょっと引いた画。それだけでドラマの運動性が強調される。そしてシーンとシーンの間時間経過を示したいときはよく狭い路地が挟まれる。そこにはたいていなにかが歩いている。

しかし成瀬作品はどうしてこんなに素晴らしいのだろう?


「でも、もう四十でしょう、あなたは?」
「だからこそ、いよいよやらなくちゃだめだと決心したんだよ」
(中略)
「でも、あなたのような齢でおはじめになって、いったいものになるんでしょうか?たいていは十八くらいからはじめるんじゃありませんか」
(中略)
「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」
彼の声には真実の情熱がこもっていた、そして僕ですら、われにもあらず心を打たれるものがあった。

(新潮文庫『月と六ペンス』p.76〜p.79 中野好夫訳 より)


おそらくそんな情熱をわたしも成瀬巳喜男の作品から感じているのだ。




<引用>
読売新聞 2006年3月13日付け KODOMO読む より

2006/03/05

停電した夜、豊かな夜 ~映画『山の音』(1954)~

先日は『山の音』(1954)を見てきた。

本作は川端康成原作のもつ隠微なエロチシズムをフィルムに定着しえた希少な作品として評価が高い。そんなアタマがあるせいか冒頭からエロの種オンパレードを見てしまった気がするw。

ともあれいつものようにまずはあらすじを紹介する。


<あらすじ>

上原謙と原節子の夫婦は鎌倉にある上原の実家で両親(山村聡と長岡輝子)と同居している。上原は父親(山村聡)の経営する会社で働いていて、絹子(角梨枝子)という女と関係を持っている。山村はそれを知っているが強いてやめさせようとはしない。

だが原がやっと身ごもった上原の子を誰にも告げず中絶してしまったことを知って山村は角に会う。角も上原の子を宿していたが上原とはすでに別れたと言う。山村が酔って家に帰ると原は実家に帰っていた。

原から会社に電話があり、山村は原と公園で会うことを約す。山村はそこで原から上原と別れる決心を知らされる。山村も夫婦で信州の田舎へ帰るつもりであることを告げる。別れを確認し合ったふたりはしかし都心にあるとは思えないその公園の広大な風景に清々した気持ちを抱くのだった。


主人公は山村だ。山村は自身を耽美主義者と自認しているわけではなさそうだがおしゃべりな長岡の口からそれらしいことを言われてもなにも否定しないところをみると実はしっかりと自覚しているのかもしれない。

まず長岡の死んだ姉がとても美人だったこと、長岡はそれをとても妬いていたこと、そして姉がもし生きていれば山村が結婚相手に選んだのは長岡ではなくその姉だったはずだと語られる。山村は、何を古いことを、と一蹴するが否定はしない。

次に上原の下には妹(中北千枝子)がいてこれが幼い子をふたり連れて二度までも実家に戻ってくるのだが、その中北は自分の不美人を理由にずいぶんひがみっぽくていじけてひねくれた性格をしているのだ。なにかにつけてそのひがみが出てくる。山村は美男の上原ばかりを可愛がって不美人な中北には冷たかったと長岡も認め、山村はそれを黙って聞き流している。

上原の愛人についてそれを知っている山村の秘書(杉葉子)に尋ねるときもその愛人のことを、美人なんだろうね、とそれがさも大事な点であるかのように念を押している。

そんな山村だから原の美貌にはもうデレデレの呈が露わとなる。

最初の方で描かれる山村、長岡、原3人での食事の際の会話を引いておく。


山村「菊子(原)。このあいだ帰った女中ね、なんつったけな?」
原「加代ですか?」
山村「あ、加代がね、帰る2,3日前だったかな、わたしが散歩に出るとき下駄を履こうとして水虫かなと言うとね、「おずれでございますね?」と聞くから、鼻緒ずれの「ずれ」に敬語の「お」をつけて「おずれ」と言ったんだと思って感心したんだよ。ところがね、気がついてみると、敬語の「お」じゃなくて鼻緒の「緒」なんだね。「緒ずれ」と言ったんだね」
原「うふふ」
山村「あはは。加代のアクセントが変なんだ。菊子、敬語の方の「おずれ」を言ってみてくれないか?」
原「おずれ」
山村「ふむ。じゃあ鼻緒ずれの方は?」
原「緒ずれ」
長岡「せっかくのご馳走が冷めちまいますよ」


もちろん原の発音はどちらも同じなのだ。じつにディレッタントで耽美的じゃなかろうか!

だからこの映画に流れるエロティシズムは山村に耽美の傾向がまずあってそれが原に向かうそれを底流とする。

山村が上原に女があることを知っているにもかかわらず、それを原に知られないようにしろとたしなめるのがせいぜいで強く止めたりしないのは原を今の原のまま独り占めしたいからだ。

つまり山村の原に対する愛情は美しいものを愛でるのに等しいものだ。山村の愛はどこまでも自分をその出発点にもっている。幼い頃から山村の自分本位な愛情の対象であった上原もそのあたりの事情をよく知っているのだろう。愛人に対するサディスティックな仕打ち(風邪っぴきのような声なのに歌を歌うことを強要される、ひどく乱暴をはたらく)などはその反動として理解できる。

上原はおそらく原を心から愛している。酔っぱらって帰ってきたとき酔いつぶれながらも「菊子、菊子」と原の名を呼んでいた。停電の夜、隣に敷いてある布団に入ろうとする原を「菊子」と甘くその名を呼ぶ。

にもかかわらず上原が外に女をつくるのは、山村の愛情が原に向かっていることを知り、原に自分と同じ思いをさせたいという腹があるのじゃないか。そうして山村の愛が本当の愛ではないことを自分と同じように気づいて欲しいのじゃないか。その裏にあるのは、山村の原へのそれが自分の場合とは異なって真実の愛である可能性があるのでそれを確認したいという思いがあるではないか。

そんな微妙なところまで描かれているのが『山の音』だ。


中北が最初に戻ってきてそれを夫の元へ帰した夜、台風が近づいてきて鎌倉は嵐になる。上原と山村が珍しく一緒に帰ってくる。もちろんふたりともずぶ濡れだ。やがて停電となり、山村と長岡はろうそくを灯して話している。上原はろうそくを灯してタバコを吸う。原はろうそくを灯して洗い物をする。やがて原は寝間着に着替え布団にはいる。上原が原に呼びかける。「菊子...」。原は上原に少しだけ視線を向けるがすぐに嵐を心配するようによそに視線を流す。

それはそれだけの短いシチュエーションだが、照明がひどく絞られ、ろうそくの灯りが暗闇に灯る。そのせいでいっそう深いものとなるその闇の深さはその途端、豊かさの様相で見る者の想像力を刺激する。じつにエロティックだ。


ラスト。都内にある公園(新宿御苑?)。ヴィスタが考慮されているという並木は硬質なエッチングのようで見る者の心に強く訴えてくる。山村と原はそこで待ち合わせていた。並んで歩く。山村は右手に視線を移す。その先では中年のカップルが並木を横切っている。原は左手に視線をやる。幼い子どもを真ん中に3人の親子がやはり並木を横切ってゆく。

原は堕ろしたばかりの子どものことを思っているに対し山村はそのカップルに原と歩く自分をダブらせているのだろう。最後まで山村は自分本位なのだ。そうして原は耽美のくびきを逃れられずその奴隷となっている親子から逃れる道を選ぶ。

ひょっとするとその原に成瀬巳喜男は自分をなぞらえていたのか...?

2006/03/03

その運動に驚愕せよ ~映画『めし』(1951)~

映画『めし』は2月19日に映像文化ライブラリーで見てきた。

といってもそのときが初見ではなく、それまでにもテレビや録画テープとかで何度か見たことはあったのだ。それで原節子主演のどうということもない夫婦もの、というのがそれまでの大まかな印象だった。

しかし、このところ同所で開催中の成瀬巳喜男監督特集を利用して未見の作品を見てきたからか、その印象が今回の再見ではまるで違ったものに取って代わってしまった。

それは人物の移動と身体の運動という思わぬ慌ただしさが計算された緻密によってどうということもない静謐として提示され記録されているという驚愕すべきフィルムだった!



<あらすじ>

親(山村聡と長岡輝子)から勧められた縁談がいやで家出をしてきたと言う娘・島崎雪子は東京から叔父夫婦(これが上原謙と原節子)を尋ねて大阪までやって来る。

原は自分の顔を見るたびに「腹が減ったなあ」という上原との生活に疑問を持ちつつあったが、突然現れ大阪でぶらぶらするばかりの姪の島崎にやにさがる上原を見るにつけそんな思いが次第に募っていく。

大阪で開かれた同窓会が終わって、喫茶店で同窓生のひとりと名残を惜しんでいた原は、体調を崩したのを理由に東京から大阪の実家へ帰ってきていたいとこの二本柳寛とその妹に出会う。いまだ独身の二本柳はかつてそして現在も原のことを想っているようだ。

その日暗くなって同窓会から帰ってみると上原は新調したばかりの靴を盗まれたといって玄関先に佇んでいた。夕食の支度を頼んでおいた島崎は2階で鼻血を出して横になったままなんの用意もしていない。おまけに上原のワイシャツの腕にその鼻血がついている。原は上原に東京に行きたいとこぼす。

翌日、仕事がらみの誘いに乗って帰宅が遅くなった上原は、向かいに住む妾をしている女性(音羽久米子)の肩を借りながら泥酔して帰ってくる。上原の上着のポケットからは会社で前借りしたお金がのぞいていた。その翌日、今度は島崎が夜遅くタクシーで帰宅する。島崎は迎えに出ていた上原と甘えるように腕を組んで帰ってくる。それを見て原は玄関の戸を閉めて中に入ってしまう。

原は二本柳の実家で帰京するための金を借りて帰ってくる。家の玄関では島崎がはす向かいに母子ふたり(浦辺粂子と大泉滉)で住む大泉から恋の告白を受けている。原はそれを中断させ、島崎にもう東京へ帰ってはどうかとたしなめる。島崎はすねるようにそれに同意する。原は帰宅した上原に東京へ行くことを告げる。東京へ帰って色々なことを考えてみたいと。

原と島崎の帰京には二本柳も同行していた。

郊外にある原の実家では母(杉村春子)と妹夫婦(杉葉子と小林桂樹)が小さな衣料品店を営んでいる。原は実家でそのまま夕食の時間まで眠りこける。

翌日、職安前に来たものの、そこへ居並ぶ人々のあまりの多さにたじろぐ原。そこでかねての友人(中北千枝子)が小さな子どもを連れているのに出会う。彼女は戦争未亡人だった。女ひとりでの生活は苦しいという中北。そこへチンドン屋が通りかかる。あれ、きっと御夫婦よ、と中北。どうして?、と尋ねる原。だって動きがあんなにうまく合ってるじゃない、と中北は答える。

原は二本柳と一緒に歩いている。二本柳に勤め口を探してくれるように頼んでいる。二本柳が喉が渇いたと言い、料亭に向かう二人。ビールを飲んで二本柳との関係に満更でもなさそうな原だが自分に同情している二本柳に気づくと態度を硬化させる。

原の実家では台風が近づきつつあった。その夜、突然島崎が原の実家を尋ねてくる。父親に叱られて家を出てきたと言う。そんな島崎の態度を小林はたしなめる。

翌日、原は島崎を彼女の両親の元へ送る。帰ってみると上原が上京して実家まで来ているという。原は逃げ出す。そこで銭湯帰りの上原に声を掛けられる。走り出す原。追いかける上原。ふたりは祭りの御輿に道をふさがれ立ち止まる。同期した視線を御輿に送る原と上原。

上原は喉が渇いたと言う。近くの店に入って一緒にビールを飲むふたり。明日一緒に帰ろうかと言う上原。そうね、と答える原。

翌日、原と上原のふたりは大阪への列車の中。上原は眠りこける。



劇中およそ11日が経過するのだが、その間、原・上原・島崎・二本柳の主要な4人が4人とも東京-大阪間を往復する。大阪で上原と島崎は遊覧バスに乗り、原は同窓会に出かけ、上原はキャバレーに繰り出し、島崎は大泉と街に出かけ、原は借金に出かける。東京で原は職安に出かけ、二本柳と散歩し、島崎を家に送り届け、河畔を歩く。みんな動きまわっている。

中でも素晴らしいのは冒頭のシチュエーションだ。

朝食が用意されようとする食卓で上原謙はタバコを吸っている。その準備に忙しく立ち振る舞っていた原節子がようやく腰を下ろして匂いを気にしながら外米を盛ったその椀を受け取るそのときまで吸い続けている。めしを食べながら上原が壁に掛けられた時計が止まっていると指摘すると、運動を停止したその時計を原も見上げて「ダメねえ」と言う。

その朝食を終えてショットが変わると上原は「おはよう」と自身の勤める大阪の証券会社を闊歩している。社内を横断する移動撮影。それから上原の足下、真新しい靴のアップ。その靴を同僚に揶揄されると上原はこの靴を購入したせいでタバコも安心して吸えないとこぼしてみせる。

朝食と共にするほど上原にとってかかせないはずのタバコが、実は社内を歩いたときの靴音によって同僚にそれと気づかれてしまう新調したばかりの靴を強調するための小道具として使われている。そして靴とは歩くために履くものだ。とすると冒頭のこの時点で歩くという運動が暗に提示されていることになる。

その頃原は自宅の玄関前で、はす向かいに住む浦辺粂子と話をしている。その上原と原の住む長屋のような住まいのある場所はそこ以外のまわりの地所から1メートルばかし低いところにある。つまりそこだけ窪地のようになっている。だから長屋のあるその窪地から外界に出るために5段ほどの階段が設けられている。朝ともなれば小学生や会社員がその階段を上って外へ出て行く光景が描かれる。

美術の中古智によるこのオープンセットは素晴らしいものだが、この構造は窪地から外へ出るためのその小さな階段を設けるために選ばれたと考えることができる。歩行という行為を描くのに階段を上り下りするときのそれほど歩行のもつ機能美を記号的に提示できるものはないからだ。だからその階段を上ってから小学生は転ばねばならず会社員は忘れた弁当をそこで受け取ることになる。

その自宅前で玄関を掃除していた原は息子の大泉滉をともなって出てきた浦辺と話している。そこへ原の向かいに住む田中春男の妾・音羽久米子が出てきてふたりに軽く挨拶する。音羽はそれから階段を上がっていた大泉にも言葉をかけてから路地へ歩み去る。その音羽と入れ違うように路地からやって来るのが上原の姪の島崎雪子だ。島崎は声を掛けてきた大泉に上原の家の在処を尋ね、大泉は大声で原を呼ぶ。振り返った原を認めた島崎は窪地へと階段を下りてゆく。出て行こうとする浦辺と擦れ違う。島崎に見とれて階段半ばまで降りていた大泉は浦辺に促されて振り返ると階段でけつまづく。

この玄関先のシチュエーションは見事なものだがその見事さは自然な会話で新たに登場した4人すべてを観客に紹介してしまう手口の鮮やかさとともにそれが歩行によって始まり歩行によって完結する運動性によることは明かだろう。

上原は社内を歩くことによって同僚に新調した靴を発見される。二階の窓から上原の帰宅を待ちわびる島崎の目に上原が歩いてくるのが見える。上原はその後も妾の音羽の肩を借りて歩いてくるところと島崎と腕を組んで歩くところを原に目撃される。大阪での上原は常に歩くところを誰かに見られる対象だ。東京では逆に目の前を歩いて通り過ぎる原に上原が声を掛ける。


類い希なほどに導入されたこれら数々の運動を取り仕切っているのは繰り返される反復と対称の構造にある。

まず窪地にある上原と原、島崎、浦辺と大泉、音羽らが住まう長屋の対称。

妻=原と娘=島崎の住む長屋に対してその向かいの長屋には母=浦辺と妾=音羽が住んでいる。原に子がなく浦辺に夫のない(らしい)ことでそれらの役柄は単純に仕訳される。そしてこれらの役柄には女の担いうる社会的役割のほぼすべてがある。

そして浦辺の息子である大泉が島崎にバラを送り、妾の音羽が原の夫・上原に秋波を送る。それらの関係の中にない原と浦辺の仲がいいのは故がないのではない。食材を買ってきた帰り、浦辺が原に「夫いじめに子いじめ。女の一生で威張っていられるのは娘の間だけですなあ」とこぼすのはこの点にある。妾は永遠の娘であると言って良ければだが。

原の運動は島崎によってもたらされる反復。

島崎が大阪に来て最初の頃のセリフによって周囲の反対を押し切って上原と結婚したふたりを島崎はうらやましく思っていたことと当時原が三味線をよく奏でていたことが知らされる。その後原ははっきりと上原に嫌気をもつようになり三味線は借金の形としてあちこちに持ち運ばれることになる。

なにより島崎の来阪により原は大阪を去り東京に行くのであり、今度はその東京の実家に島崎がやって来ると原は上原と共に大阪に帰ることになる。

もう少し詳しく言えば、大阪で島崎と上原がデートのような大阪遊覧をすること、そしてその後ほのかに抱いていた上原への恋心を告白すること(すぐにその断念をも告白するが)で原は東京へ行き、東京では島崎が二本柳と江ノ島でデートし、二本柳と結婚すると告白することで原は大阪へ帰るのだ。

大阪で原が同窓会に出席する日もその同窓会通知のはがきを読んでいる島崎の全身アップによって始まったではないか。(ちなみにこのときのはがきを朗読する島崎の姿はとても美しい!この劇中最高に美しい場面だ)


その他にもあちらこちらに見いだすことのできる反復と対称の構造は一見無秩序な運動の集まりに秩序と法則を直観させる。そうした秩序と法則の直観がこの作品に静謐と完成度を与えていた。


しかし実は『めし』的な作品だけが成瀬の魅力ではまったくないのだ。
恐るべし!成瀬巳喜男!