2006/01/31

繰り返される死と再生 ~映画『THE 有頂天ホテル』(2005)~

やっと観にいってきました、三谷幸喜監督の『THE 有頂天ホテル』

三谷幸喜監督になるこれまでの2作品、『ラヂオの時間』(1997)、『みんなのいえ』(2001)を思い返してみれば、今回の『有頂天ホテル』は最も笑わなかった作品だと思うけど、じゃあ一番面白いのはどれかと言うとこの『有頂天ホテル』になるのではないか。

観る者を笑わせ泣かせる。大衆演劇になくてはならないこの必須要素を三谷幸喜ほど豊かにその作品に付与できる人をわたしは他に知らないのだが、この『有頂天ホテル』を観ているとなぜ彼がそんな芸当ができるのかというその理由がわかる気がするのだ。

ここでは死と再生が繰り返されている。

死というと大袈裟だけど、この『有頂天ホテル』にあるのは死そのものではなく、死に向かって急降下しようとするちょっとした姿勢に過ぎない。人生というシーソーゲームが死に傾きかける場面。誰にだって訪れるそんな瞬間だ。

そんなとき、死に向かうその過程が笑えてしまう。そこに笑いが生まれる。つまり、笑いをつくるには死をつくればいい!それを笑え!

しかしそのシーソーは死に傾き尽くすことはなく、あるきっかけを得てかならず再生に向けて大きく反転する。劇的なる反転。そのとき涙が生まれる。熱い涙だ。喜ばしい涙だ。

だから『有頂天ホテル』には死と再生が溢れている。その様子を観ていると、まるで死と生が等価であるかのようなパラダイムの変換が脳内で起こる。これが面白い。そうか。死ぬことが生きることで、生きることは死ぬことなのだ。呪文のように繰り返す。

物語の最終場面、カウントダウン・パーティは妙にしらけている。賑わってはいるが誰も彼もその表情は火種の消えそうな灰のように虚ろだ。彼らはこんなに苦労してひとつの輪廻を越えたのに、Avanti!と言う新年とともに新たな生と死の流転を否応なく再び我が身に迎えねばならない。あ〜あ。そんな声が聞こえてきそうだ。


PS
役所広司と佐藤浩市のふたりがホテルの厨房の中を通り抜けるシーンはぞくぞくしますよ。佐藤浩市にものを食わせると天下一品だなあ。あ、あと石井正則の登場シーンもお見逃しなく!

2006/01/27

風邪を引く

どうも風邪を引いたようだ。熱はないが少ししんどくて鼻水とくしゃみが出る。ということでこの2日間は家でおとなしくしている。珍しいこともあるものだ。

その間症状は良くも悪くもなっていない。だいたいわたしの場合、この症状が風邪のどういう時期の症状なのかよくわからない。今から嵐の如くひどくなるのかそれともこれから次第に快方に向かうのかわからない。少し無理して外に出ていいのか用心して寝ているほうがいいのかもわからない。で運動もせず食事だけはしっかり取っているので腹ばかり張ってくる。ふう。

わたしのメイン・ブラウザは Safari ということになっているのだが、(たぶん)v.1.3にアップデートしたあたりから、何度かcgiサイトで使用すると勝手に落ちるようになった。その原因と対処法は今もってわかっていない。これでは劇ぱわも安心してできないのでかなり以前からシイラを使わせてもらっている。Safari のように落ちまくることもなく快適だ。しかしシイラとて時々は落ちる。落ちないまでもしばしフリーズすることがほとんど定期的にある。こちらもその原因と対処法はわかっていない。

こんな具合に不具合が頻発するにもかかわらず Safari やシイラを使うのはそのインタフェイスというか見栄えが格別だからだ。サイトの閲覧だけなら Safariとシイラ が群を抜いてきれいだ。ほとんど美しいと言っていい。

しかし動くとダメというのではこれまたダメだ。それに我慢できないときはニエさんに教えてもらった Firefox をまたぞろ引っ張り出して使ってみたりする。使ってみると見栄えは Safari に比べるべくもないが堅牢そうだ。

Firefox はテーマ(スキン)の変更ができるし拡張機能とやらも導入できるらしい。ならばならばせめてテーマの変更ぐらいはしてみようかと思い立った。
・・・
しかしこれができない。サイトからのインストールもダメだし、.jarファイルをダウンロードしてそれをテーマ・ウインドウにドラッグ&ドロップしてもダメ。Windows ではできるようだから Mac がダメなのか。

ふう。なんか熱が出てきたりして。

2006/01/25

表層と境界 ~映画『キング・コング』(2005)~

かねてから好評を伝え聞く『キング・コング』を観てきた。
それはうわさに違わぬ美しい映画だった。

その美しさは「表層」そのものの美しさだし、表層に必然的に付随する「境界」の美しさでもある。
この作品が1933年製作『キング・コング』(RKO)のリメイクであること、しかもオリジナルに忠実なリメイクであることを思い出せば今作の存在自体からして表層的なのだと肯ける。観客は誰だってそのおよそのストーリーを観る前から知っているのだから。

ここで言う「表層」とは具体的には地球の表層を指す。髑髏島に向かうventure号と海原、髑髏島コングのねぐらから見る世界、ラストのエンパイヤステートビルを廻るニューヨークの風景。そして「境界」とはこれら地球の表層に訪れる光と影のそれを指す。それらの映像を前に、わたしには(アン(Naomi Watts)と同じく)美しいとつぶやくことしかできやしない。

コングとコングを攻撃する巨大コウモリ(あるいは複葉機)、それを見守るアンとアンに近づく恋するジャック(Adrien Brody)。劇中二度にわたって繰り返されるこの構図はあらゆる物語の消失点としての表層と境界の関係性と美しさをわたしたちの瞳に焼きつける。観る者の瞳は熱く熱く...。

エンドロール時のタイトルバックはそのことを確かに抽象する。
だから、「表層」と「境界」になぜこんなに美しさが宿るのだろう、という疑問は言い換えなければならない。「表層」と「境界」にこそ美しさはあるのだ、と。


PS
それにしても導入部のあの素晴らしさはどうしたことか。
その冒頭、アンはボードヴィルのコメディエンヌ(!)で、彼女の一座とその舞台が時代背景(大恐慌後の1930年代のニューヨーク)と共に描かれてゆくのだがしかし、そこからはただならぬ気配がたちどころにたちこめ始めるではないか。それは美しいというものではない。そのとき画面から漂ってくるのは観ているわれわれをどこかに連れ去ろうとする力だ。その力は、これからすごい映画が始まるぞ、と観る者に告げる。わたしは座席でそわそわしながら姿勢を正す。

2006/01/18

美貌の横顔

毎年1月には大相撲初場所が東京は両国国技館で開催されている。NHKがその模様を中継しているので楽しみに御覧になっている方も多いだろう。

特に昨年はただひとりの横綱・朝青龍が数々の記録、7場所連続優勝、年間6場所全優勝、年間最多勝(84勝)、を成し遂げその強さにさらに輝きを加え、11月の九州場所では美貌の関取琴欧州が史上最速19場所での大関昇進を果たした年だったのだから、それに続く今年の初場所にはいつにもまして注目が集まろうというものだ。ミーハーなわたしがその例に漏れるはずがないのは言うまでもない。

といってもわたしは大相撲中継を生で見ることはあまりない。そのかわりNHKが夜更けにやっている「大相撲 幕内の全取組」を見る。放映時間24分のダイジェスト版だがテンポが良く結構集中して見ることができる。タイトルも知らないけど最後に流れる音楽まで気に入っている。

昨日はその十日目だった。
ダイジェストのダイジェストをお送りしよう。

ひとり全勝を続けていた平幕の北勝力(東前頭11枚目)は時津海(西前頭14枚目)に寄り切りで負けた。その最初の立合いで時津海は待ったをした。そのとき北勝力はすごくいいタイミングで立っていたように思ったのはそしてその時点で勝敗が喫したように感じたのはわたしだけだろうか。案の定、次の立合いで北勝力はなにかの定めに従うかのように力なく俵を割った。時津海はこれで勝ち越しを決めて8勝2敗。優勝争いに絡んできた。時津海の待ったが作戦だとしたら、その行為をどう判断すべきだろう。

腕っぷしの凄さが際だつ露鵬(東前頭2枚目)が小兵で人気の安馬(東前頭6枚目)にその腕を決められ寄り切られたのは案外だった。このあたりが安馬の、それに露鵬の面目なのだろう。

白鵬(西関脇)と雅山(東前頭筆頭)の一番、ふたりがぶつかった直後、白鵬は左腕を伸ばし左脚を踏ん張り、倒れんばかりの姿勢になりながら雅山の前ミツを取ろうとする。頭を下げ雅山の前ミツを取ることだけに集中する。そして音が聞こえてきそうなほどの強固さで前ミツを取った。勝負に勝つことなんかより、目の前の前ミツを取る、それが相撲なのだ。オレの相撲なのだ。だからなにがなんでも取る。前ミツを取る。そんな白鵬の強い意志が目に見える気がした。結果は下手投げで白鵬の勝ち。白鵬はクレバーな力士だなあ。作戦とはこうでなくちゃいけないだろう。

次は目当ての琴欧州(西大関)の出番だ。勝負は早かった。立合い直後、春日錦(西前頭5枚目)の右まわしをつかみ頭をつけるとそのまま寄り切った。まわしをつかんだらもうなにもさせやしない。つかんだまわしをさらにぐいぐい引き絞るようにして前に出る。春日錦はのたうつように首を振りながら後退するしかなかった。前日と同じ万全の取組。琴欧州もこれで8勝2敗。調子が出てきたよ。

勝負を決めて礼のため自分の仕切りに帰る際の琴欧州の表情がわたしの印象に残った。

いい相撲が取れた。これでいい。
大関になって初めての場所で勝ち越すことができた。ああ、良かった。
しかし本当の勝負はこれからだ。そう、これからだ。

そんな意味のブルガリア語がわき水のような静かさで彼の脳内を巡っていたのじゃないかしら。そんなリアルな横顔が琴欧州の大きな魅力のひとつなのだ。

結び前の一番で栃東(東大関)が土俵際危なくも1敗を守った。取組のすぐ後、太ももの後ろに痛みが走ったらしいけどもう大丈夫らしい。

結びは朝青龍(東横綱)に琴光喜(東関脇)。横綱はまわしが取れなくて少うし泡食ってたけど素早い動きで絶えず状況をリードすることで落ち着きを取り戻し、最後は見事なすくい投げで琴光喜をひっくり返してみせた。なんだか両者の身体のまわりを流れている時間の速さが違うような感じだった。勝った直後の横綱の表情と仕草が勝負の一部始終を語っていた。

というわけで十日目の時点で全勝がいなくなり、
1敗が朝青龍、栃東、北勝力の3人。
2敗が琴欧州、白鳳、時津海、それに広島出身・北桜の4人。

やっぱり朝青龍と琴欧州が優勝を争うのかなあ。
(北桜〜!)

2006/01/13

チョロQ+2X

2006年1月12日 木曜日
広島M店 換金43個 全台無制限 1箱のみ持ち玉移動可

再び意識を取り戻したのは朝の8時18分だった。少し頭を上げると時計が見えたのだ。とはいえそれも一瞬のことで、上げていた頭が枕に沈むとまたもや意識は薄れてゆく。これはいかんと半身を4分の1だけもたげたのはとくダネをつけるためで・・・その後なにかとの格闘が数十分続く。いつも通り。

なので開店して1時間後に入店。しおらしく端から台を見てまわる。

サミーチョロQ+2Xは面白い。その理由は単純にして明快。当たりが目に見えるからだ。

今日はそのチョロQのあるシマがイベントコーナー。背中のテレサテンで迷いを吹っ切ってすりすりとチョロQを見て歩く。角から2番目がスルー開けてある。打ち始めるとサブデジがすぐに全灯。ほらね、とほくそ笑むよりも早く、デジタル当たりより先にハネモノ当たりを引く。役物に入った玉数にして4個めのこと。右隣の先客が首を振っている。気がつくまでもなく、10台あるチョロQのうち稼働しているのはそのおじさんとわたしの台だけだった。おじさんの台の大当たりメモリはそのとき3の数字を表示していたが、意外なほど多くの持ち玉を箱に抱えていた。そのおじさんのすぐ隣に座ったわたしは、仕方ないけど、それほどいいやつではない。

渡り鳥が羽を休めるように、席について少しばかり遊んでゆく客もないではないが、チョロQのシマは昨年末以来すっかり客は飛んでいた。それを言えばこの店自体客が飛んでいるのだが、それにしてもチョロQはよく客が飛んでいた。だから隣のおじさんが2,3週間前にもチョロQを打っていたことを思い出すのに時間は要しなかった。リーチと思しきタイミングで台枠のpushボタンを必死に連打するので覚えていたのだ。

無理もないと言えば無理もない。この機種は3,7が出なければその醍醐味は味わえないからだ。3,7が出てハネモノチャンスに入る確率は約1/11に過ぎない。デジタル当たり11回に1回の割合だ。昨年初めてこの台を打った時、大当たり29回目にしてやっと7を引いたことを思い出す。あのときはもう夜の9時をまわっていたのじゃなかったか。

そして一度ハネモノチャンスを引くと、これが神経を使うこと夥しいものがある。夥しいという大袈裟な形容が決して大袈裟な形容ではなく、「おびただしい」というどこか禍々しくも魔界的な、それでいて少々滑稽な音の連なりこそがハネモノチャンスに臨むプレイヤー心理に相応しい、そのことは経験者ならでこそ然りと同意してもらえるのじゃないかしら。1時間もハネモノチャンスを味わえば、あなたもきっとわかってもらえると思う。

夥しい神経の使い道のひとつは役物内での玉の動きにある。奥のVに入るコースはふたつあって、ひとつは、左のタイヤを越えてさらにそのまま右のタイヤ奥を越えてVに入るコース。このコースがV入賞の大部分を占めるのだが、これがなかなか実現しない。見ていて玉が右タイヤ奥に吸いつくと軽く卒倒してしまうのがわかる。もうひとつのV入賞コースは、左タイヤに拾われた玉が右タイヤ奥にはくっつかなかったけど右タイヤ手前にくっついて、あるいは左タイヤを素通りした玉が右タイヤ手前にくっついて、なおかつ、なおかつ、5秒に1回のタイミングで降りてくるサジに拾われてVに入賞する、というほとんど信じ難いコース。ひぇ〜。そういった玉の動きの瞬間瞬間に合わせるように言葉にならない祈りが脳内をこだまするのだから大変だ。

さらにその役物V入賞はデジタル大当たりと競合しているのだからさあ大大変。デジタルが当たるとその次の瞬間トレーラーがやって来て大きな音と共に当たり図柄を置いてゆく。それでハネモノチャンスはジエンド。そのときのトレーラーを人呼んで悪魔のトレーラーという。その際のパーッっていう音は確かに恐ろしい。それは清水崇監督作品ぐらい評判のいいホラーだ。さらに通常は当たって欲しいデジタル当たりをそのときだけは当たらないようにと祈る自分をなんて現金だと思わないわけにはいかない。こっちも確かにホラーの種だね。

他には、スルーの入り、羽根への寄り、台の寝かせ、打ち出しの調整など、打ちながら気を遣うべきことは有り余るほどある。特に台の寝かせが悪いとコースの途中で玉がこぼれ落ちることがあるから始末が悪い。寝かせは見た目だけじゃまったくわからないからなおさらだ。

こう考えてみると、ハネモノチャンスの醍醐味って、喜びよりも苦しみの方が勝ってるような気がしてきたなあ。ふう。

そうこうするうちに隣のおじさんともども一箱ぐらいの玉が出たが、ふたりともまだ3,7を引けないでいる。わたしの台は数えてみるとどうも回りが良くないような気がしてきた。経験上このぐらいの玉はこのままではそう遅くない時間に飲まれてしまう。ようくわかっている。

昼を過ぎて隣のおじさんが出玉を飲まれてしまった。これまた意外に早いが、おじさんはずっと打ちっ放しだし、わたしの台よりも回っていないのだろう。5百円ボムを投下し始めた。止めるかと思いきや結構しぶとい。そういうわたしもハマリが200を超えて箱の底が見え始める。そのときわたしの台に7の単独リーチがかかった。もちろん今日初めての出来事だ。というか、今年初めての出来事でもある。3の単独はアテにならないが7の単独は激アツだ。チョロQ群も出た。隣のおじさんはこれまでになく身を乗り出してきてわたし以上に盤面に顔を近づける。このままノーマルリーチだと当たり確定なのだが・・・フラッグが振られてスーパーに発展する。わたしは妙に冷静な自分に気づいていた。それはわたしの顔面と台の画面の間に隣のおじさんの頭があったからなのか、それとも当たりはしないことを予感していたからなのか。

予感は当たり、単独7のウイリースピンリーチがハズれ、その直後の復活に薄い期待を寄せたが復活もならず、おじさんは頭を振りながらその頭をやっと引っ込めてくれた。それでなんだか一段落した気がして昼飯休憩を取った。

そばで腹を膨らませて帰ってみると隣のおじさんの姿はなかった。わずかに残っていた出玉もいつの間にかなくなり、再び現金投資を開始して2,3度当たったが3,7ではなかった。それもすっかり飲まれ、回りがどうも25前後で落ち着いているらしいので未練はあったがこれ以上打つ気をなくした。


【昨日の結果】
CRチョロQ+2X
19/16/1321(105)
出玉=0
収支=-10500

2006/01/05

新しい年は涙から始まったりする

新政府軍の思いもかけぬ強襲により敗走を余儀なくされた新選組の面々は出会うべくして出会った箱館奉行の永井尚志(佐藤B作)によって副長の土方歳三(山本耕史)が敵の銃弾に倒れたことを教えられる。それを認めたくない島田魁(照英)らは土方の元へ駆けつけ、ならば共に死のうとまでするが、永井はそれを止めて言う。「生きるんだ。生きて新選組を否定した奴らがどんな国をつくるのか見届けるのだ」と。

このときわたしの円らな瞳は涙に濡れていった。熱く濡れないわけにはいかなかったのだ。
そのわけはというと、裏で古畑ファイナルをやっていることをそのとき思いだした、からではなく(あっちは録画してるので後で見ることにしました。三谷ファンは忙しい!)、放映はもう一昨年のことになる『新選組!』を見ていたとき「前半はともかく後半のあの暗さはなんだ。血生臭い内部抗争でしかないじゃないか」と批判していた自分を思いだしたからだ。

そのときは三谷さんがなぜあんな物語を書いたのか理解できなかったのだけど、その理由が今回この永井のセリフを聞いてハッとわかった気がしたのだ。つまり、三谷さんは、現代日本のあり方というかそんなものに批判的なのではないか、と。少なくとも批判したい気持ちの一端を『新選組!』に託していたのじゃないか。

なんでそうなるの、とはわたしがわたしに言ってやりたいのだが(ほんとなんでそう思ったのだろう?)、その論理回路の究明は今は置いておく。ともかくそう閃いた途端にお熱いのがどっと出てきたのであった。2年越しにわたる三谷さんの骨太い思いをそこに垣間見た気がしたからかなあ・・・。


謹賀新年
2006年がみなさまにとりまして良い年でありますように
今年もよろしくお願いします